若い頃はファッションデザイナーになりたかった。
高校はそれなりに進学率の良い公立校だったので、
親も担任の教師も、当然私が大学進学をするものだと思っていた。
ところが志望校を決める段階で、私は周囲の思惑をあっさり裏切り、
「服飾の専門学校に行く。」と言い出して、周りを慌てさせた。
なぜ服飾かというと、それはもちろん、
当時キチガイレベルで好きだったロックの影響だったのだが。
とにかく言い出したら聞かない私なので、
親を説得して服飾の専門学校に進み、
念願叶って、卒業後は某アパレルの企画部に配属された。
ところが、夢の職業についたのに、
そこで大きな挫折に遭遇することになる。
デザイナーとして就職したのに、企画が全く出来なかったのだ。
何をどう打ち出せばいいのか分からない。
求められているものが何なのか分からない。
情けない話だが、本当に使い物にならなかった。
数年後、「営業部に転属のため、店頭研修」という名目で、
とうとう企画から外されてしまった。
配属されたのは、都内某百貨店の平場。
この言葉は好きではないが、所謂「デバガ」である。
婦人服売り場の、ラック2本が私の持ち場。
あの頃の気持ちは、挫折感と自己卑下でいっぱいだった。
こんなはずじゃなかったのに。
使い物にならない私はダメだ。
そんな気持ちで毎日を過ごしていた。
百貨店の平場というのは、各メーカーの販売員がしのぎを削る
「ザ・女の世界」
いかにライバルメーカーより、自分の担当ブランドの商品を売るか。
戦国時代さながらの戦いが毎日繰り広げられていた。
しかも、後で知ったのだが、私が配属されたのは、
前任者が周りの販売員さんからのいじめにあい、
ストレスから突然仕事に来なくなって、そのまま退職してしまったという
曰く付きの売り場だった。
私はそんな世界に無防備で飛び込んでしまった訳だが、
不思議と周りと揉めることはなく、いたって穏やかに仕事をしていた。
渋々通い始めた百貨店勤務。
本格的に販売をしたのは始めてだったが、
やってみると意外に面白かった。
何よりも、お勧めした商品をお客様が試着されて、
試着室から出てきた時の、ぱぁっとしたお顔の輝き。
それを見るのが好きだった。
だいたい、試着をされて、いまいちだと思えば、
お客様は試着室から出てこない。
「いかがですか。」とお声がけをして、
着たところを見せて下さるのは、「いい!」と思われているからだ。
そういうときのお客様のお顔は、花が咲いたようなお顔をされている。
そんなお客様の反応が嬉しくて、接客をしていた。
お客様が他のメーカーの商品と、
うちの商品のどちらにしようか迷われている時、
他メーカーの物のほうがお似合いだと思えば、
躊躇なくそちらをお勧めした。
なぜなら、無理に自社品をお勧めしても、
お客様が納得されていらっしゃらなければ、後日
「やっぱりあっちにします。」とお取替えになってしまうからだ。
逆に、その時は他メーカーのものをお買い上げになっても、
自社商品のアピールもしっかりしておけば、
「やっぱりあれも下さい。」と戻って来てくださったりする。
徐々に、「今日は見るだけですけど。」と、
定期的に商品を見に来て下さる方が出始め、
気がつけば、毎週の営業会議で売り上げランキング外常連だった売り場が、
常にランキング内に入るようになっていた。
あの頃はまだ若くて、売り上げのノルマとか、営業成績とか、
あまり気にせず仕事をしていた。
私はただ、お客様とお話をすること、
目の前のお客様の魅力を観察して、
この方にお似合いになるのは、どの商品だろうと考えてお勧めすること。
そして喜んでいただくこと。
それが楽しかったのだ。
その売り場にいたのは1年に満たなかったが、
今思い返せば、とても大切なことを教えてくれた売り場だった。
目の前の、たった一人のお客様の笑顔。
「これ、似合う!素敵!」と思われた時の、華やいだエネルギー。
お包みした商品を受け取って、「ありがとう」とお帰りになる時の
嬉しそうな後姿。
今でも、はっきりと覚えている。
ハイヒールコーチになって、女性が美しくなるお手伝いがしたい。
そう想う私の原点は、きっとあの売り場にあったのだ。
自分は美しいと思う時、女性は本当に輝く。
そんな、女性が輝く瞬間を見たい。
輝く女性がもっと増えて欲しい。
私の残りの人生。
私の命は、そのお手伝いに使いたい。
そう、心から思う。
マレーシア クアラルンプールより愛を込めて
nana
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