2018年2月1日木曜日

私が生きる軸

私が生きる軸

それは一体何だろうと考えた時、
「潔さ」
という言葉が出てきた。


私は、「竹を割ったような」とよく言われ、
猪突猛進、鉄砲玉、武闘派と、
勇ましくも、エレガンスとはかけ離れたお言葉をいただくことが多い。
美しきハイヒールコーチを目指す身としては、いささか不本意なのだが。
これだけお言葉を色々頂戴するところを見ると、
多分、私は、間違いなく勇ましいのだろう。

こんな風に呼ばれるようになったのは、ほんのここ5-6年の間であり、
その前の私は、いわゆる「いい人」だった。
その実、人に振り回され、悩みに囚われ、
私という人間の本質と、社会的な役割を履き違えていた。

よくある話だと思うが、「母」「妻」「会社員」などの役割を
完璧にこなすことが、自分を生きることだと思い込んでいたのである。
常に人の目が気になったし、自分にとって不本意でも、
役割のためなら「No」を言うことが出来なかった。
「母はこうあるべき」
「○○はこうあるべき」
という、「べき思考」がとても強かったのだ。

そのくせ、私は本当は何をしたいのか、どう生きたいのか。
よく分からず、ただ目の前のことをこなすことに必死だった。



人間、本質と離れた生き方をしていると、どこかで必ず軌道修正が入る。
長年放置すればそれだけ強く、宇宙の鉄槌は容赦なく下されるのだ。

私も例に漏れず、数年前にあらゆる方向から、
軌道修正のための鉄槌がガンガンと下された。
鉄槌が下されたのは、結果的に良いことだったのだが、
あまりの容赦の無さに、当時の私は
なぜ自分だけがこんな目に。という被害者意識に囚われて、
もう死んでしまおうか。とまで思いつめていた。

色々なことが重なった結果。
あるアクシデントに巻き込まれ、私は顔の左半分に怪我を負った。
左目がテニスボールのように腫れ上がり、
人間の目というのは、こんなに腫れるのか、と妙に感心したほどだ。


そこまで行ってやっと、私は気がついた。
これは、優柔不断に生きてきたツケなのだ。
自分以外の何かに囚われて生きるほど、愚かなことはない。
逆に、他人からどんなに愚かに見えようと、どう言われようと、
自分が納得していれば、ぶれることはないのだ。



その日から、本音で生きることを始めた。
良い子ぶって格好つけていた私は、メッキだった。
本当の私は非常に不器用だし、体当たりすることしか出来ない。
ストレートに物を言うので、煙たがられお叱りを受けることも多い。
離れていく人も多かった。
でも、ストレートに生きることを始めてから、私はとても楽になった。
恐れるものは何も無くなった。

なぜなら、自分で納得して決めたことであれば、
たとえ他人には失敗に見えても、それは経験値を積むための、
大切なトライだからだ。
たとえ無難に切り抜けても、それが他人の言うがままであっては、
一体誰の人生だろうか。


私が生きる軸
それは、私の長所も短所も、美点も愚かなところも、
全て潔く認めること。
そして、心の羅針盤に従い、潔く、美しく生きていくこと。
私にとっては、美しさと潔さは同じ意味なのだ。


もうひとつ重要なのは「笑い」
人生で起きるどんなことも、これはいつか笑って話せるようになる。と
俯瞰することを忘れない。常にそういう心持ちでいたい。

私の究極の目標は、死ぬときに
「色々あったけど、なかなか面白い人生だった。」
と、笑って旅立つことだ。

その目標を果たせるよう、今日もまた、体当たりで生きてゆく。
それは不器用だけれど、とても愛おしい私の生き方なのだ。




マレーシア クアラルンプールより愛を込めて
Nana


















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